彼女の手から、それが離れた瞬間、ほぼ無意識に私は沈んでしまえばいい、と言った
まるで歩道に唾を吐きつける愚民のように汚らしく言ってしまったので、私は今自分がどんな顔をしているか気になった
きっととてつもなく汚く吐き気がするように醜かっただろう
今夜が月が出ていなくて本当によかった
川をゆたゆたと流れる頼りない明かりは水面の闇を少し映し出すだけで、実際その闇に私の影を映す事は出来ても表情を浮かび上がらせる事は出来ない
なんて頼りない、明かりだろう
ぼつぼつと、川の闇を浮かびあがらせる程に数だけはあるのに
そう思ってもう一度吐き捨てた
「どこまで流れるんだろうねぇ」
ぱんぱん、と何かを祈るようなポーズをした後彼女は言った
無地の黒の浴衣と帯を巻いた彼女はさっきの私の言葉を気にしなかったらしい
いや、もはや聞こえてないのかもしれない
最近の彼女はいつもそうだったから、と私はもう一度繰り返す事無くその言葉を聞いた
個人的には闇夜に溶けた浴衣から肌蹴る白い皮膚がとてつもなく魅力的で、消えない跡をつけたい欲求にかられたが、それも無視した
彼女は黒く長い髪を書き上げた
闇夜に、指から腕までずたずたに割かれた白い肌が浮かび上がった
「川下で回収されるそうだ」
私は返した
嘘ではない、近年汚染問題が深刻になり、それらは海ヘ流れ着く前に回収される
どれほど豪奢な舟でも、水に濡れればただの紙
ただのゴミに成り下がる
ゴミはゴミ箱へ、いらないものはさっさと捨てらればいい
「入れ物は、そうかもね」
彼女は言った
しかし、少し濁ってしまった黒の瞳はゆらゆらとゆっくり進む手作りの舟の明かりを見ていた
ゆらゆらと、次第に遠くなる明かり
まるでそれが太陽だと言わんばかりに眩しそうに彼女は見詰めた
「精霊(しょうりょう)は、海を越えるかしら」
おとついの事である
夏の味が濃く感じられる夜のこと、彼女の大切な彼女が死んだ
病死だった
そのとき、同席していたわけではないのでよくは知らないが、死んだ人間の情報はそこそこ記憶に置いている
初めて見た時はとても綺麗な人だった
柔らかい茶の髪、白い肌、ふっくらとした赤い頬、整った造形は美しいというよりどこか幼げでとても可愛らしく、青のパジャマから細い腕は儚げで、それも魅力の一つなのだとぼんやりと理解したことは覚えている
何よりも綺麗だったのは欧米の血が入っているらしく空ではなく、海を思わせる群青の瞳はどこまでも清んでいた
しかしそれは半年前の彼女の大切な彼女の情報だ
最後に私が見た彼女の大切な彼女はあまりにも酷く、変化していた
茶の髪は真っ白になりパサパサと抜け、白い肌は赤かった頬まで白く染め、そんな頬は肉を落としたように痩せこけて、綺麗と思ったことに嫌悪してしまうほど瞳の群青は白く濁っていた
指も手も腕も足も脚も肢も肉が落ちて、息を吹けば崩れてしまいそうな風体は木乃伊(ミイラ)のようで恐ろしかった
それがホスピスのベットの上でひゅーひゅーと息を頼りなさげに吸っている姿に私は真っ白な病室の床に嘔吐物をぶちまけたのだった
「帰りたいって言ったの」
闇夜に溶けるような声で彼女が言った
んーっ、と空に届けというように腕を伸ばす、その姿がどこかに言ってしまいそうで怖くなった
肩まで下がった浴衣から見えたまだ赤みの残る傷は肩までに及んでいた
「毎日のように会いに言ってさ、あの子が死ぬ最後の日に言われたの、私を流してくれって」
始まりは簡単な話だ、彼女の大切な彼女の母は海の向こう側の人間だった
彼女(略)の父は私が住む島国の人間だった
彼女の父と母は人種の壁を超え愛し合った
そして彼女が出来た
しかし彼女の母は彼女の父以外にも夫がいて子が居た
その事をしった彼女の父は彼女を連れて日本に帰った
彼女の父はその後直ぐに死んだ
理由は知らないが、失望と絶望の中に死んだと聞いたことがある
まぁ、とりあえず死んだのだ
彼女は遠くの親戚に預けられた
私の目の前にいる彼女と出会い、病気を発病し、3ケタを超える医者に匙を投げられて、いくつもの病院を梯子して、あの山奥のホスピスに流れ着いた
そしておととい死んだ
とても簡単な話である
「死ぬ前に母のいる海の向こう側に行きたいって、行ってから死にたいって」
くすくすと笑う彼女の横顔に、もう死んでいるではないか、という言葉を私は飲み込んだ
川にゆらゆら浮かぶ明かりが、彼女の横顔を照らし出していたからだ
とても美しく、私はそれに見入った
「……自分と、自分の父を捨てた女など見て楽しいのか」
「さぁ、恨み辛みが溜まり溜まって枕元立ちながら般若心経でも唱えるんじゃない?」
「フン、そこまで恨みぶかいとは、見かけによらんな、女は」
「娘であれだけ綺麗だったもん、多分お母さんはスゴイ美人だったんだよ」
「騙されたのが男、か」
何が楽しいのか、くすくすと彼女は笑い続けた
まだ明かりが横顔を映し出している
「お願い、お願いねって、あんな声で笑って言うの、思わず泣いちゃったよ」
"あのパサパサな喉でよく頑張ったものだ"
私は唾を吐きつけるように言った
それを真っ黒な川が、ゆらゆらと飲み込んでいく
「精霊(たましい)は海を越えてくれるかな」
海越えて、その先に行って、恨み辛みを晴らしたら、地球を一周して、帰ってきて欲しい
彼女は笑う
「死んだ人間に鞭打つようなきつい事は止めとけ」
「死んでるし、平気だよ、疲れない疲れない」
「疲れる体もないぞ、歩く足も無い」
「だから精霊は海を越えたらいいね」
早く帰ってきて、私の元へ
そう闇夜の川に彼女は呟いた
ゆらゆらとぼつぼつと流れていく灯篭に何かを託すように、まるで祈るように
「沈めばいい」
もう一度、吐き捨てるように私は言った
気に食わない、死んだくせに
どうしてだろう
生きている者が生きている者を繋ぐのはこんなにも難しいのに
死んだ者への想いは、断ち切れない
虫唾が走る、死んだくせに
どうして邪魔をするのだ、必死で生きている人間を
「生きたかったからだよ、誰よりもずっと」
ぼつぼつと、精霊が流れる
小さな船に御霊を乗せて
ゆたりゆたり、ゆらゆらと
風に任せ、波に任せ、歩く足も失ったその身で遠くを目指す
そして帰ってくるという
風に任せ、波に任せ、歩く足も、遠くを見る目も失ったその身で
また
「沈めばいい」
足代わりの船が暗い暗い、水面の底へ
彼女を死へといざなう貴様など死んでしまえばいい
ごぽごぽと、肺に水が入っていくような思いを味わう私のように苦しめばいい
死んでるくせに
死んでるくせに
死んでるくせに
どうして、彼女に生きづくのか
「私が、死んで欲しくなかったからだよ」
彼女は私の頬をそのずたずたに裂かれた指で拭った
その温かみが、どうしようもなく人間臭くて私は泣いた
精霊流れて、何処何処へ行く
その身がなくなり、その代もなくなり、それでも行くか
全てをなくしたその身で、何かを奪い去っていく
忘れる事すら出来ない、大切な何かとなって
「沈んでしまえばいい」
彼女の彼女のように細くなった彼女の身を抱き締めて
夜が明けるまで、私は死人に呪詛を吐いた
まるで、上が見えない水底にいるような気分だった
―――夏の、まだまだ眠れぬ切なく青い、夜のこと
end
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