学生時代より大分長くなった髪を黒いゴムで括り、石鹸で手を洗う
家庭科の実習じゃあるまいし、エプロンなんてつける必要なんてどこにもないのだが「忍足さん、エプロン、萌えー」と彼女が呟いたので鞄の中に入っていた(多分跡部あたりが入れた)新妻風フリフリエプロンをヤケクソでつける
おまけに三角巾でも巻いてやろうかと思ったが彼女の瞳が尋常ではない程に空腹を訴えていたので中断、どうせ髪括ってるし捜してみたが鞄の中にはハンカチしか入っていなかった
他人ちとは言え勝手に冷蔵庫を見る
結果、たまご×1、玉ねぎ2分の1、ベーコン(賞味期限切れ)がパックのまま残されている
一人暮らしとは言えあまりの管理能力のなさに愕然とするものの、冷凍庫を覗くといつのものかは知らないがラップに包まれ冷凍されたご飯が一つあった
おそろしくがちがちに固まっているが電子レンジで解凍すれば大丈夫だろう、多分
そんな訳で
「炒飯でええ?」
空腹と飢餓に支配された彼女は恐ろしい速度で首を縦に振った
●炒飯の男SS●
忍足侑士が芸能界という荒波に飛び込んでもう5年経つ
5年前、氷帝学園高等部を卒業した忍足侑士は大学部に進学せずにお笑い芸人を目指すため大阪に帰る!!と高らかに宣言した
ここで通常のホームドラマなら何を言うと大反対にあうのだガ大学病院勤務の父親は長男である忍足に反対はしなかった
それどころか、帰りたくなったら帰っておいで、と老婆心たっぷりに言われてしまった
その思わぬやさしさに忍足は大泣きしてしまった
まぁ母親は母親でM-1で優勝したら連絡を入れろ、と言っただけで、女医の姉はフットボールアワーのサインを貰って帰って来いと言った
ここまで忍足に職業選択の自由が与えられているのは忍足の姉が立派に医者と言う職業についているからなのであまり文句をつけてはいけないのだがロマンチストの忍足としては父のように温かい言葉をかけて欲しいので「おかんらちょっと冷たいんちゃうの?」とぐしぐしと真っ赤になった目で訴えて見たが母娘共々鼻で笑われた
忍足家では女性が強いのだ、言うまでも無く
まぁ週に1回は手紙やら電話やらメールやらで現状確認や「野菜を食べなさい」とお米券を贈ってくれるという一見よくわからない家族の愛が忍足にはとても愛しく、ラブロマンス系にも弱いがホームドラマ系の映画にも弱い忍足は何度も泣いた
そんな訳で、忍足は順風満帆・家族全員一致万歳三唱で大阪へいけることになった
大阪へ付いてからは月日が風のように速かった
NSCのある難波の安アパートに住居を構えて、肉体労働だが時給が良い工事現場のバイトをしながらNSCでお笑いを学ぶ
かなりハードだが若さということもあいまって忍足は充実した日々を送っていた
「将来絶対ビートたけしとダウンタウンとナインティナインに殴ってもううねん…」
一見お前はマゾなのかという偏見をもたれそうになるが、忍足の小さい頃の夢は万民の笑顔と言うちょっぴり哲学混じりな願いなのだ
つまり「俺が笑いモンになる事で皆が笑顔になるんやったら本望や……」という感じなのだ
書いている本人もあまりにも難解かつ哲学的なので理解に苦しむが、とりあえず彼は嬉々としてラッキィ池田の振り付けの授業も真剣にやったし、かなり低めの自分の声を改善するために発声練習も頑張った
季節は流れそろそろM-1の第一回戦が始まる時期になった
ここでお笑い芸人が自分はピンかコンビか決定するところだが、忍足は自分がボケだと信じて疑わなかったしピンだからこそ弄られる確率も上がるだろうとマゾな事を考えていた
そして忍足がR-1グランプリに向けネタ作りをし始めた所に運命の着メロが鳴る
腹の底からひっくり帰りそうなヘビメタな曲が早朝のアパートに響く
5日前家出と称してこっちに遊び(無断外泊ただ飯ぐらい)にきた従兄弟の謙也の仕業とはいえ何て迷惑なことをしてくれるんや、と電話に出たら鼓膜が抉られた
相手は跡部景吾だった
尊大で横暴、自分大好きなナルシスト、その癖にちゃんと責任感はあって何があっても投げ出さない、凄まじいカリスマ性とほんの一握りの人間にしか見せない優しさと何よりも類まれなるその容姿と風貌で老若の女に絶大なる人気を誇る中学&高校時代のユウジンである
しかし跡部も忍足もそれほどという程仲はよくなかった、だが高校を卒業したら大阪へ行く的な話もしたし(そのときは別に励ましの言葉も見送りも無かったが)何を勘違いしたかたまに実家経由で送られてくる全身タイツなどを持て余しながらぼんやりと跡部との交友はゆるゆる続いていた
それでもこんなはっきりとしたコンタクトは初めてである
携帯電話の向こう側、何だかいつもの余裕を無くしてまくし立てる跡部に新鮮さを感じながら忍足は夢うつつに話を聞いていた
今、跡部は芸能プロダクションを経営しているらしい
世界にその腕を伸ばす跡部グループが何故国内の芸能プロダクションをやっているのかわからないが、まぁお遊びみたいなものだろう
始めたばかりとは言え強大なコネを持つそのプロダクションにはフリーの奴、他の芸能プロの奴、無名から有名まで物凄い数の応募があるらしいと聞いた
勿論忍足は興味なかったし、忍足が目指しているのは芸能は芸能でもお笑い部門だ
しかし、跡部の内容はこうだった
今、所属している数少ない社員が出演する2時間ドラマのエキストラをやって欲しい
本当はまた別の社員がやるはずだったが、そいつが風邪を引いて声が出なくなった
素材は選ぶタイプの跡部の事務所には手で数えるほどしか社員は居ないし、一応台詞もあるので一般人にやらせるわけにもいかない、他の事務所からエキストラを借りたりすれば出演している跡部の事務所の社員まで迷惑が行く、しかし放り出す事も出来ない、そうこう考えていたら思いついたのだ、忍足侑士の存在を
忍足は見目がかなりいいし身長もある、お笑いの授業で演技も発声もブレスも学んでいる、プロ意識には大いに欠けるが忍足にとってもいいチャンスだ
はっきりいってNSCもバイトも入っていない完全オフ日くらいは昼間で寝ていたいがメルセデスベンツのSクラスで大阪⇔東京を送り迎えしてくれる上に交通費を別に支給、勿論ギャラは通常の3倍、夕飯は都内某高級有名ホテルのディナーフルコース+全身タイツ一年分のプレゼントとなれば話は別だ
全身タイツは要らないが即座にオッケーした忍足は急いで起き歯磨きをし身支度をして今持っている一張羅(かろうじてブランド品)に着替えて跡部の車を待った
アパートの場所を教えていないが跡部なら大丈夫だろう、予想通りに1分後にやってきたベンツに乗って忍足は大阪を出た
車の心地よい振動に揺られて数時間、久しぶりの東京を味わう暇も無く現場についた
生まれて初めてのテレビの仕事、ホントはバラエティがよかったんやけど……と贅沢な呟きを心に埋めて忍足は頑張った
ぶっちゃけ、登場シーンは一瞬きりである
恋人に振られた主人公が花屋の前を通りかかる、気は向かなかったが中を覗くと男が花束を買っている、綺麗な花……、そう思って去っていく男の腕の中の花束に見とれているとまた別の花屋の店員に話し掛けられる「お花が好きなんですか…?」と
そこからまた別の恋愛に発展していくらしいのだが、忍足の役は花束を買う男の役である、台詞も一行だけ
このためだけに大阪から出てきたと思えば肩透かしの上に虚しい気もしなくは無いが、持ち前の真面目さと鍛えた演技力(お笑い方面)であっさりOK
何度も言うが忍足はエキストラ、役名すらない端役以下
それでも、それでも忍足はどこかに充実感と高まる昂揚に気付かないフリをして跡部のベンツでホテルへ直行した
飯は美味しかったしデザートも付いていた、多忙な跡部と最後まで同席は出来なかったのは少し残念だったが跡部ももっと現状を話したかったようでまた会う約束もした
ベンツの柔らかな椅子にうとうとしながらまどろむ帰り道もとろけるようだった
無論それはシンデレラのように0時までの魔法であり、次に目覚めればバイトとお笑いへの道を極める日々へと変貌する
それでも息抜きには最高の一日だった、帰ったらおとんとおかんと姉貴に絶対絶対知らせたんねん、テレビ出るーって、絶対驚くわー
そこまで思って忍足は意識を落とした
一週間経って2時間ドラマ放送後
一時間経ってもボロボロ泣いてと14型のテレビの前から離れない忍足にまたヘビメタが鳴り響く
相手は跡部だ
忍足はぐずぐずと鼻を啜りながら直ぐに電話に出た
ボロボロと零れ落ちる涙を溜める心の中は跡部に感謝したい気持ちで一杯だった
気まぐれとは言え、エキストラとは言え自分をこんなええドラマに出させてくれてありがとう
このドラマの一部になれてホンマ嬉しい、有難う跡部、ホンマ有難う、……でも最後ヒロイン殺したのはやりすぎやと思わへん?ヒロイン、絶対コージとなら幸せになれたのに…!!
そう熱く語る忍足を制して、跡部は言い聞かせるように言った
大変な事になった、と
事の始まりは忍足の登場シーンが瞬間最高視聴率をたたき出してしまった事による
その通知、というか統計が出たとき跡部は偶然だと思った
20,2%
恐ろしい記録だとも思った
しかしこれが全て忍足のお陰、と思うのは身内びいきにしてもいささかおかしい話である
確かに忍足は整った容姿だ、見目もいい、身長だってある、声は低くお笑いには向かないがシリアス系の俳優としてならパーフェクトだし、これは跡部自身驚いたのだが忍足の演技力はかなりいい線行っていた
発声、ブレス、音、感情、お笑い学校で身に付けたにしては過ぎたものを思ったが、それでも忍足のお陰なんてちっとも思わなかった
だいたいこの芸能界に忍足の条件を満たす奴なんてゴロゴロいる、無論、無名の役者系のグループにだ
この世界は甘くない、容姿だけで勝ちあがれたら整形外科医が儲かって仕方が無いし自分だって天下を取れる
まぁ良くやったのは事実、今度また暇なときを見つけて食事にでも誘おう
そう跡部が携帯電話を握った瞬間
携帯、事務所の電話、外部用の連絡器、あとで調べてみたら自宅の家や自分のマネージャーである樺地の携帯電話&実家まで
「あの2時間ドラマ花屋のシーンのエキストラ、跡部プロダクションの方ですよね、その方の名前と連絡先をお教えできませんか!?」
という鼻息荒い内容の電話が、事務所をつきぬけた
そんな訳で忍足は跡部に東京に呼び戻された、ほぼ強制的に
忍足にはお笑い芸人になる夢があったし、まだビートたけしにもダウンタウンにもナインティナインにも殴ってもらっていない
そりゃ撮影は楽しかったし、出来る事ならもっと出たいとも思った
しかしお笑いと俳優ではかなり違う、と思う、俳優だって人を笑顔にすることも出来るがまた違うと思う、自分がやりたいのはお笑いだ、そう何度も忍足は真剣に跡部に詰め寄った
……だったら東〇久系の俳優になればいいんじゃねーの?
それもそうだ、と納得してしまう忍足は馬鹿だった
結局大阪から東京に呼び戻された忍足は数少ない跡部プロダクションの一員、それも新人にしてトップに踊り出てしまった
ぶっちゃけ嬉しくない
俳優としての実力が無いのがわかっているし、情熱もないのもわかっている
シンデレラの末路を知っている身となれば余計に気も沈んでくる
実際そうだ
一夜にして有名となった忍足への仕事の量は、今までの暇人的な大阪生活に比べれば倍以上になり、バイトをする余裕も必要も無くなった
その分他の人間のやっかみも増えた、妬みも嫉みも増えた
無論事務所内ではそんな事もなかったが、一歩外に出ると酷かった
跡部事務所の出身というだけで羨望と嫉妬の眼差しで見られるのに、知らない間に高みに居てしまった身としては理不尽さに泣きたくもなる
自分の目指す場所でもない
泣き言を言って何度もやめようとした
「忍足さん、楽しそうですよ」
そんな自分の隣にいたのは、―――今目の前で飢餓状態に陥っている彼女だった
.
続きは此方
「忍足さん、結構楽しそうに毎日を送っています」
長く、染髪なんて一度もしていないと言わなくてもわかる真っ黒な髪を飾り気の無いゴムで一つに纏めて白のバレッタで束ねていて女性にしては身長は高めで痩せているが、何故かスマートというよりひょろっちいという印象を与えている
きっとメラニン色素を全て殺ぎ落としたような真っ白い肌と少し不似合いなダークスーツのせいなのだろうと忍足は思っている
どこに行くにも片手には何かの書類、視力が悪いらしいがメガネもコンタクトも嫌いらしくていつも目を細めてこちらを見る
事務所創立から跡部(と樺地)と一緒に歩んできたという彼女は、事務所で唯一の女性マネージャーだった
「楽しそうってなんですかいな」
「そのままです」
撮影の帰り道、まだまだタクシーなんて豪華な事を言ってられない環状線の電車の中
終電ということもあって中はガラガラで彼女の声はよく響いた
「楽しくないのですか」
「……」
自分達以外誰も居ない電車内で、――自分にまるで寄り添うように座る彼女の驚いた顔を忍足は見つめながら考えた
楽しくないのか、演じる事が
――楽しくないといったら嘘だ、今日だって2時間ドラマの死体役を演じるためにこうやって朝早く地方までやって来た
朝5時に起きて、始発の電車乗って、自殺の名所の2つ手前の駅で降りてこの暑い夏ン日に屋根の無い場所で半日待たされた
だらだらと流れる汗は滝のように止め処なく溢れたし脱水症状で倒れるかとも思った
それでも忍足はじっと見つめていたのだ
流れる汗も乾いていく喉も全部無視して撮影風景を
主役と、それからその相手役
真剣に、そして楽しそうに演じる二人をじっと見詰めていたのだ
「……楽しい、かもしれませんね」
「だったら良いじゃないですか」
「……でもなぁ」
「大丈夫ですよ」
東京ー、東京ー、次の駅は東京ー、とアナウンスが流れる
今日は台詞もなかった、連続殺人鬼の一番初めの犠牲者でOPで殺される役
出番は直ぐに終わったしかし忍足は帰らなかった
見ていたのだ、蒸し暑い夏の中を暑さなど感じさせない役者達を
自分とは違って真剣に演じる役者達
羨ましく、思った
「それは違いますよ」
彼女は笑う
馬鹿にしているような、可愛がっているような不思議な笑みだった
「主役と、それから相手役、自分と違って台詞も名前もある二人が羨ましかったんですよ」
「……ハァ」
「楽しいんです演じる事が、でも楽しいって認めてしてしまえば今まで大阪で頑張っていた自分が無駄になるからでしょう」
「………」
誤解しないで下さい、と彼女は言った
「人生に回り道なんてありませんよ」
「人生ねぇ……大きく出ましたね」
「ある人によると私たちが今この場所に生まれた意味なんてないらしいんです」
「……なんとも哲学的ですねぇ、俺にはわかりませんわ」
「スタートも無いしゴールも無い、ただ生きて死ぬ、その中で一生懸命頑張って生きることが大切なんです」
「ほぅ」
「だからただ歩いていく、心臓が止まるまで、その間に美味しいご飯や温かい布団や譲れない想いや好きな人があれば最高なんですがね」
それが思うより難しい、と彼女は言う
俺は首をかしげた
「忍足さんが今までどれだけ失敗し敗北し失恋し後悔して落ち込んで八つ当たりしてまた落ち込んでどうしようもなく情けなくみじめったらしい人生を歩んでいても」
「…そ、そこまで俺は見た目酷いですか」
「今の忍足さんにはそれが一つでも欠ける事さえ良しとしない、今の忍足さんが忍足さんであるためにはそれらが必要不可欠だったんです」
「………」
「見たところ、いや、見なくても結構頑張っちゃってるじゃないですか」
忍足はいつのまにか手を握り締めているのに気付いた
じんわりと汗が滲む
普段、ポーカーフェイスを売りと(されて)している身としては可笑しいくらいの昂揚だった
どきどきして、頭はぐらぐらした
思い出すのはテニス
中学から始め、高校で終わった大切な思い出
使い古したラケット、古びたボ―ル、草臥れたテニスシューズ、誇りまみれのレギュラージャージ、紫色の髪のパートナー
いつのまにか色あせた思い出
心を熱くし、昂揚感に満ち溢れた自分がいた
「目指す者は違っても目指す場所が同じなら、そこからまだ先を歩きつづけられるなら、うだうだとぶちぶちとごねている場合じゃないですよ」
駅に着いた
ドアが開く、彼女は椅子から立ち上がり、これ暇なとき見てくださいね、と今まで持っていた書類を忍足に渡した
そして開いたドアに吸い込まれていく
自分も降りる駅だ
「俺は、頑張れますか」
駅のホーム、階段に向かおうとしている彼女に尋ねる
ドアの前
自分は降りずに彼女を見つめる
彼女は振り返った
「私は、一生懸命頑張ってる人が大好きです、どんな形でも真剣になって頑張っている人が大好きです、頑張って頑張って、失敗して、それでもめげずに突き進もうとしたりがっかりしたり落ち込んだり泣いちゃったり、また突き進もうとしたり、かっこよくアホやってたり、そんな結構馬鹿な人が好きです、応援したくなるし、声をかけたくなる、たまに休ませたくなる、見詰めつづけたくなる、愚痴だって聞きたくなります」
結構マニアックな性格してるんですね、と忍足は突っ込みかけた
「いつだって、慰めてあげますよ」
マネージャーですからね
ドアが閉まった
流れていく景色
彼女が遠くなる
「待――――」
そこまで言って忍足は言葉を切る
一息ついて、忍足は今まで座っていた席に座りなおした
膝に頭を埋める
「ふ」
笑った
苦笑だった
「ふ、ふはは、あははは……」
それでも、愉快でしかたなかった
手の中の書類がくしゃくしゃになっていく
それに気付いて顔を上げる
書類を開けると、今度やる連続ドラマのオーディション通知だった
「………俺は、頑張れるんかな」
彼女が言うように、目指す場所から先もずっと
歩いて歩いて、たまに休んで、愚痴とか言って
目指した場所と違う場所にたどり着いても
歩きつづけることが出来るのだろうか
諦めずにダダをこねずにずっと
目指す場所へ、心臓が止まるまで
大人になっても、忘れずに
「俺は――」
そんなもの
自分だけが知っている
「でけたよー」
綺麗、というより使われていない簡易キッチンからリビングの彼女に呼びかける
片手にはフライパン、中身はタマゴ炒飯
呼びかけて数秒
聞こえていないのか聞いていないのか答える力が残っていないのか返事はなかった(きっと3番目だ)
お皿に盛って出ようと思ったがこの部屋には皿が無い(あっても紙皿だ)
かろうじてあったタオルを片手に持って忍足はリビングへ向かった
――あれから
忍足侑士は芸能界で歩きつづけている
今まで受けた事のないオーディションにも挑戦し、そして敗れた
通算100以上のオーディションを受けて、2,3個受かって、その中の1つが朝の子供向けのヒーロー役だったり連続ドラマの探偵役だったりした
その一つ一つを演じる事が楽しくて、そして奥が深い、ちらほらファンも出来た
演じてきた役により『クールなポーカーフェイス』という役柄が板についてしまったのが少々残念だが、とりあえず忍足は歩いている
「炒飯やで、ホラ、起きて」
「………」
リビングに鎮座する埃の溜まった机に突っ伏すように倒れる彼女の前に炒飯を置く(勿論先に机を布巾で拭いて)
ぴくり、と反応するところを見ると意識はあるのだろうが起き上がる気力もないらしい
いくら今週は仕事やなんやで辛かったとはいえ、このダレ具合はどうだ
家事は得意ではないと言っていた彼女の荒んだ食生活ッぷりは想像できるがどうやらエネルギーが本格的に切れたらしい
「俺もせっかくのオフ日なんやけどなぁ」
寝ているのか気絶しているのか、彼女の閉じられた瞳を見つめながら忍足は苦笑する
彼女はマネージャーから忍足専属マネージャーとなった
一応忍足は今や跡部事務所の稼ぎ頭となっているので当たり前の事なのだが、彼女は仕事面ではとても優秀で忍足の支えとなっている、無論精神面でも
変な意味ではなく忍足のパートナー的な存在なのだ
「別に変な意味でもいいんやけど」
机の上にタオルを置く、その上にはフライパン、中身は炒飯
大阪時代から料理を作りつづけているので味はおりがみ付き
冷めると美味しくない程のレベルではないが、温かいうちに食べて欲しい
本格的に三途の川を渡り始めた彼女の頬を叩き、忍足はもう一度完成を告げた
久しぶりのオフ日、自宅から3つ先の町の彼女のアパートで炒飯を作る
その理由が「忍足さん、いいお嫁さんになれますよ」と自分の料理を食べるたびに呟く彼女の一言にあることを忍足はまだ黙っている
忍足侑士、24歳
職業跡部プロダクションの新人俳優、希望は芸人、野望はお嫁さん
夢はみんなを笑顔にする事
そんな感じで人生
歩いて悩んで、たまに止まって愚痴って休んで悩んで遊んで、また歩く
美味しいご飯に温かい布団
譲れない想いに好きな人
忍足侑士はまだまだ歩みつづけている